海のシルクロード
東地中海沿岸地域のガラスは海路によって広州へと運ばれ、そこでそれを手本としてつくられたと考えられる。
しかし使われたガラスはカリガラスであった(東地中海沿岸地域はソーダガラス)。前漢中期には海路の交易
が活発化しており、インドや東南アジアのカリガラスの製作技法が伝わった可能性がある。
カリガラスの広がり
カリガラス以前(漢代以前)、すでにソーダ石灰ガラスの珠などがインドや東南アジアでつくられ、流通していた→カリガラスが流通する下地が整っていた。しかし、中国南部の広西省でつくられたカリガラスがどのようにして中国内に広く流通するようになったのか?
それは秦代に中国南部と長江流域が運河(霊渠)でつながり、両広地区から中原への輸送が容易になっていたことが挙げられる。こうして中国南部から内陸へもたらされたガラス珠は、楽浪郡などを経由して、やがては日本へと至ることとなったと考えられる。
この楽浪郡からは弥生時代に流行したガラス管珠と同じような管珠が出土しており、日本のガラス管珠の出土量から考えても、朝鮮半島三国経由というよりも、この楽浪と直接的なやり取りがあったのではないか?とのこと。
中国といえば鉛ガラスではないのか?
この点は今回の発表では触れられていなかったが、中国でカリガラスというイメージがないため、
ここで脱線して同じ発表者の著書からこの問題点に触れておく。
ガラスの主原料のうち多くを占めるのは砂。しかしこれを熔かそうとするなら1700℃以上というかなりの
高温を実現できる窯と技術が必要で当時では不可能だった。ここに鉛やカリウムを添加すると熔融温度が
下がる。ガラス製造地によって入手しやすいものが使われたが(古代エジプトではソーダ、中世ヨーロッパでは
カリ分が豊富な木灰、東南アジアや日本では鉛といったように)両広地区ではカリ硝石が鉛鉱石よりも
入手が容易だったとのこと。前漢時代の史料にカリ硝石のことが書かれている。
また、カリガラスは中小規模の墓からの出土が多く、中央権力者というよりも地方の豪族に愛好されていたとされる。鉛バリウムガラスは「官」、カリガラスは「民」の傾向があったと考えられている。