宿舎から海沿いに歩いて20分ほどのところに「city site」と呼ばれるローマ時代の遺跡があります。
551年に地震によって崩壊したとされています。
この遺跡にガラスを熔かしていた窯が少なくとも4基あり、あちこちに
ガラスの塊が落ちています。
↑ 写真真ん中やや下にある切り込みは試掘の痕跡
4基の窯址の中で最大のもの。
↑ こんな塊がごろごろ落ちている
窯の壁にはいまもガラスがくっついていて、実際に稼働していたことが分かります。
さて、この窯ですが、窯全体の写真を見て分かるように、遺跡の床の上に
窯が構築されており、したがって551年よりも後に築かれたことが分かります。
つまり、この遺跡が崩壊する前にはなかったということです。
この窯の隣に小さな窯があるのですが、この窯には壁が残っておらず、
四角い基盤しかみることができません。しかし、最初の窯よりも貴重な痕跡を
残しています。
↑ それがこれ。燃焼室です。真ん中に壁があり、燃焼室が2室に分かれていました。
city siteにある窯は製品をつくるための窯ではなく原材料をガラス化するための窯です。
大きなガラスを作って分割し、各地のガラス工房へ輸出されていました。これは現代と同じで、
ガラス工房がガラス屋さんから原料を仕入れるのに通じます。とはいえこんなゴロゴロした塊
を買うわけではありませんが、ガラスそのものを作る会社とガラス製品を作る会社というように分業が行わ
れていたという点で共通します。
窯の年代は少なくとも8世紀以降と考えられており、最も大きな窯の能力は、壁に残っている
ガラスと面積から算出して、37トン以上のガラスが1回で作られていたとのこと。これは恐ろしい
重さです。
このような窯の遺跡が生で見られるのは非常に珍しく、ガラス研究にとって貴重な遺跡です。
レバノンではガラスを発掘したという体験と、古代の窯(厳密には中世の窯)を見ることができたこと、
そして、古代の伝統を継ぐ、日本とは製作スタイルの異なる現代ガラス工房を見ることができたこと、
これらの経験が、今の研究の下地になっています。
返信が遅くなり申し訳ございません。いくつかのブログにコメントいただきましたね。
順次返答しやすいものからで恐縮ですが、まずはこのお返事から。
この窯のガラスはIan C. Freestoneによる分析調査が行われ、2002年にアメリカのコーニング・ガラス美術館刊行『Journal of Glass Study』vol.44に公表されています。本の紹介をしようしようと思いつつできていないままになっていました。
これによるとさらに詳しい調査が必要であると言われていますが、植物灰タイプのガラスであることは確実とのこと。