副葬品として多くのガラスが見つかっているが、漢代とは様相が異なる。この時代は後漢が220年に滅亡して
以来、589年に隋が統一するまで中国が南北に分裂していた混乱期に当たる。同じ時期、西方ではローマ帝国と
ササン朝ペルシアの対立があり、東西をつなぐシルクロードの主な3ルート(オアシスルート、北方のステップ
ルート、海路の海の道)の利用にも影響を与えていたため、これらの道の利用の仕方によって中国にもたらさ
れるガラスも様々だった。
【北朝】
西晋期(265年~316年)・・・ローマガラス、ササンガラス出土
五胡一六国時代・・・北燕、北魏、北周の墓からガラスが出土。ローマガラスとササンガラス。
5世紀以降はローマガラスが見られなくなり、ササンガラスが登場。
【南朝】
東晋(317年~420年)・・・ほとんどが括り碗(こちらの記事の註参照)でローマガラス。
宋(420年~479年)・・・同じく括り碗でササンガラス。
南北朝のガラスはどのようにもたらされたか
魏晋南北朝時代の東西を結ぶ主要ルートはオアシスルート→終点は西安で、東晋の首都建業(江南)までは
五胡の支配を受けており、また混乱期のこの時代にオアシスルートが安定していたとは考えにくい。
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海の道による交易によって南朝へローマガラスがもたらされた。
五胡の王朝である北魏や北周は鮮卑族による王朝で、北方遊牧民族。北魏時代、華北で出土するガラス器は
すべて鮮卑族と関連する。ガラス器を出土した北燕の被葬者は鮮卑族だった。このように北方民族である
鮮卑族とガラス器の関係は興味深い。
北朝で出土したローマガラスはロシア、黒海沿岸などステップルートに属する地域から類似品が出土して
いることから、東西を往来する騎馬民族によってもたらされた可能性がある。一方、ササンガラスも北魏墓
から出土しているが、ササン朝はオアシスルートの交易を中心に栄えていた。北魏が493年に洛陽へ遷都して
からは、このオアシスルートも掌握することになった。漢代に広西でつくられていたガラス器が廃れたのは、
このような東西ルートの繁栄があったことが原因の1つだったと考えられる。また、当時の上流階級には
「闘富」という富を競う風習があり、遠方よりもたらされた西方ガラスが珍重されていたようである。
このことも近隣の広西のガラスを求めなくなった理由の1つだったかもしれない。
*1 魏晋南北朝時代:後漢滅亡の220年からいくつかの短命の王朝を経て隋によって再び統一される589年までの時代をさす。この中には以下のような江南地域の漢民族王朝と華北の北方民族王朝が含まれる。
三国時代(220年~280年)→西晋(280年~316年)→①南朝【江南】東晋(317年~420年)、宋、斉、梁、陳の漢民族の王朝が続く(420年~589年)→589年、隋により統一。(西晋より)→②北朝【華北】五胡一六国時代(304年~439年)→北魏(439年華北統一)→東魏、北斉・西魏、北周→589年、隋により統一。