The Times of Israel紙で、4世紀のガラス工房址が見つかったと報じられました。
web siteでは 発見された遺跡やガラスの写真が掲載されています。また、発掘者の
動画による解説も。英語ですが。
この記事を訳すと以下のような内容になります。要点は、
”北イスラエルにおける、この大規模なガラス工房址の発見によって、考古学者はこの地のガラス製造に関する従来の考え方を改めなければならない。すなわち、古代ユダヤの地は当時、ガラス製造の拠点だったということだ。
4月11日(月)のイスラエル考古局の発表によると、昨年夏、ハイファの東側に位置するアフラとベト・シェアンを新設の鉄道でハイファと結ぶ工事中に、この4世紀の遺跡が出土した。考古学者は、我が国で発見されているガラス工房の中でも、この遺跡が最も古い。ローマ時代、ユダヤの地におけるガラス産業を示す究極の証拠だと述べている。
ガラス窯は同時代のKhirbet ‘Asafna遺跡に隣接した形で発見された。この遺跡は1960年台、ミズーリ大学とコーニングガラス美術館が発掘し、同じ時代に属するガラス器を製作する工房があったことが分かった。
イスラエル考古局調査官アブ・アルサラム・サイードは建設現場を訪れ、トレンチの中に”ガラスの塊や床と灰の層”があることに気付いた。
「床の破片、炉の壁や天井のガラス化したブロック片、透明な未精製ガラス片が発見されました。これら遺物が大変重要なものであると分かった時、我々は完全に興奮状態でした」と彼は語った。
カルメル山のふもとで、これらの窯が発見されるまで、イスラエルで最も古いガラス製造関連遺跡は6、7世紀のアポロニアだった。
最近見つかった窯と同じ時代の歴史資料の中に、ローマ時代のパレスティナにおけるガラスについての記述がある。賃金と価格の上限を決めた法令が定められた301年にディオクレティアヌス帝によって帝国中に建設された記念碑。そこには「ユダヤのガラス」-ユダヤで作られた天然の緑色ガラス-について言及されている。最高価格令と呼ばれるその勅令では、ユダヤの緑色ガラス1ポンドは13デナリウス、簡素なガラス杯や器は1ポンド20デナリウスと定められていた。アレクサンドリアのガラス品はわずかながら高級品扱いされた。
1970年代初期、トルコでこの勅令の複写が発見された後、イギリスの考古学者ドロシー・チャールズワースは、この文は「不明確極まりない」として、ユダヤのガラスは現代のレバノンにある都市”シドン”のガラスだと断定した。
イスラエル考古局ガラス部門長エール・ゴリン=ローゼンによると、この時代のローマ帝国領のあちこちで見つかっているガラスの化学分析では、それらがユダヤの地で製造されたことを示していたというが、それに関する直接的な証拠が不足していた。
彼女は声明でこう述べた。「今回、初めて原料が製造されていたガラス窯が発見されました。その原料を使ってガラス器が作られていたのです。これはとても重要な発見です。イスラエルと古代の世界すべてのガラス産業史にとって無視することはできません」
ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの古材料の専門家イアン・フリーストーン教授は「当時のローマ帝国で作られていた原ガラスのおよそ90%がエジプト製とイスラエル製だった」。鉄分の含有量が低いのは「海岸の砂をガラス向けに調整したからだ」という。
エジプトからハイファ港へ運ばれた炭酸ソーダが混ぜられることで、ユダヤ製原ガラスは「わずかに緑がかる」。それはアレクサンドリア製の透明ガラスよりも質が落ちるものの、他の場所で作られるガラスよりはすぐれていた、と教授は語った。
緑色のユダヤのガラス塊はそれから帝国中へと運ばれ、器や窓に姿を変えた。